ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

それぞれの和歌

娘の小学校で百人一首を覚えている。

娘のクラスは今20首を覚えたところで、娘も必死に覚えている。

百人一首なんて、お正月にしただけで、覚えてないと思っていたけれど

2,3首は覚えていた。

「花の色は うつりにけりな いたづらに

   わが身世にふる ながめせしまに 小野小町」と

「君がため 春の野に出で 若菜積む

   わが衣手に 雪はふりつつ 光孝天皇」。

夫が和歌といえば…と覚えていたのは、

「この世をば わがよとぞ思ふ 望月の

    欠けたることも なしと思へば 藤原道長

それは百人一首じゃない!という突っ込みを娘から入れられていた。

不思議なことに百人一首の和歌はどうも頭に残らない。

きれいすぎるからか?感情がいまひとつ伝わらない。

それは時代と古語のせいかと思っていたけれど、

和泉式部の和歌を知って、血の通った和歌だ!!と衝撃を受けたのを思い出した。

特に好きだったのは、

「黒髪の みだれもしらず うちふせば

  まづかきやりし 人ぞ恋しき」

(黒髪が乱れるのも気にせずに横になると、

まず、黒髪を書き上げてくれていた人が恋しい)って、

いまでも伝わる恋愛の和歌。

高校生のときにこの和歌に胸キュンしたものです。

以後、和泉式部は私の中で恋愛の神様です。

恋の和歌といえば、もうひとつ思い出す歌がある。

「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ

  わが身一つは もとの身にして 在原業平

(月も春も昔のままなのに、私だけ変わったものだ)という解釈と

(月も春も昔のままで、私も昔のまま、変わったのはあの人だけ)という

解釈がある。

あの人というのは在原業平の想い人であった人で、

その後、天皇の后に。

私が学生の頃は、「彼女だけ変わってしまったものだ…」と解釈していた。

でも、だんだんと大人になってくると、

「月も春もあの人も変わってしまった。

変われなかったのは私だけだ」という孤独感や置いてけぼりにされた

気持ちが強いのではないかな?と思うようになってきた。

文法談義ではなく、年齢を重ねたら、きっとそう詠むだろうなぁ、と。

年齢や辿った人生とともに解釈が変わり、

噛めば噛むほどに味わいのある歌だなぁ~と思う。

こんな歌をさらっと詠んだ在原業平、モテるハズだわ。

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