ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

お葬式と信仰心

お葬式が終わり、人によりそれぞれだな~と改めて思った。
例えば、義母は義母にとっての父の死を境に
急に信仰に篤くなり、読経のCDまで買い、我が家にもくれた。
「これを聞くと、心が穏やかになれるわよ。」と。

実妹も祖母の葬式に参列し、
「お葬式って、生きている家族の心の整理するときなのね。」
なんてことを言い出し、
先進的だと思っていた叔父さんが
「お坊さんへの言動がいかにあるべきかと」語ったり…
みなさん、どうされたの???と、一人狐につままれた気分。
相変わらず、信仰心のかけらもないのは私と父だけだった。

子どもたちは私が棺に祖母の愛用の品を入れるのを見て、
「お母さんは何を入れてほしい?」とよく聞くようになった。
三十路の私に聞く?
90過ぎた曽祖父と60前半の父を通り越して私か!!と思いつつ、
「結婚指輪だけ入れて。あと、桜の着物はシミがついているから棺へ入れて。
でも、あの金の帯は高いから焼かんといて~、もったいない!」と
真面目に細かく指定。
そうやって考えると、そうか、それ以外はいらないものなのか…と
断捨離がすごく進みそう。
トランク1つの荷物ではなく、
棺に入るだけの荷物、ってこれからのキャッチコピーにいいかも。

「お葬式どうだった?」と聞いてくれる友人たちに、
「お坊さんがさぁ…」とお坊さんがきっちり金額を明示したことへの
違和感を語った。
これが葬式仏教です!という模範例のようなお坊さんだった。
母方の祖父の法要をしてくれているお坊さんはお経の意味、
集まった意味など読経の後に毎回、ちょっとした法話があり
静かに語り、聞いていると信仰心のないハズの私ですら頷きそうになる。
そういうのとは全く違った。

ほかにも葬式にやってきた親戚の言動が呆れたことを語ったり、
親戚関係は遠いのに通夜も葬式も出席してくれて言葉をかけてくれた
親戚がありがたかったり、いろいろ気づいた。

そして、お葬式が終わり、みんな「終わったね…」と思っているけれど、
私は香典返し担当大臣に任命されたため、
あちこちから延々と届く香典を集計中。
香典返しをするのもそれぞれが「うちの地域では…」と全国に
散らばった親戚が言ってくる。
「岡山が標準でいくから!!」と言ったのに外野がうるさい。
「ギフトカタログがいいぞ~」とか。
高齢の祖父も何度か香典返しでギフトカタログもらったけれど、
高齢者があの中から選んで、書いて、送ってって…すごく大変だった。
ながーく放置されていた経緯もあり、
高齢の親戚が多い今回の香典返し、ギフトカタログは使いません!
そして、あの中で「これ、前から欲しかったの!!」的なものを
見つけたことは皆無!5,6回ギフトカタログの中から選んだけれど、
「うーん・・・まぁ、これがマシ?」っていう選び方に毎回なった。
高齢の親戚へ送る香典返し、ご飯の友一択!まだ選べてないけれど。

祖母の葬式で私の葬式の理想がわかった。
家族葬、香典不要(香典返しが大変だから!!)、
戒名もお坊さんもいらない、
どこかのレストランで思い出話に花を咲かせながら
みんなで料理を食べる。
それだけでいい。
お金は生きている人たちにこそ、私は使ってほしい。
「お葬式は生きている人への心の整理よ!」と実妹は言っていたけれど、
お葬式が終わっても心の整理がつかず妹は泣いている。
私はお葬式の事務処理に追われすぎて涙がでない。
誰のためのなんのためのお葬式なのか…。
親鸞聖人は死後は鴨川に流して魚の餌にしてくれと遺言したとか。
そういう教えは一体、どこにいったんだろう。