ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

「人の値打ち」

周囲にいる高校3年生が進路に悩んでいる。
みんなそれぞれに悩んでいる。
ある人は悩み、疲れ、先生に暴言を吐き、
(ただ、彼はきっといまものすごく後悔していて、
暴言より後悔のほうが大きいだろうと思う)
ある人は、ママ友のママ友の…と経由して、
「手相見て」と手相が私まで送られてきたり、
あそこの大学は?どうなの?
あの学部はどうなの?とふるさとの大学を聞かれたり、
希望学部のおすすめ大学を聞かれたり。

私も高校3年のときは、こうやって支離滅裂、傍若無人
荒唐無稽で、それでいて必死だったんだろうなぁと
懐かしく思い出した。
私の高3の夏、大手塾の夏期講習に参加して、
周囲の必死さにすーーーっと冷めて、夏期講習だけで撤退した、
というほろ苦い記憶がある。

大学を卒業して、偏差値もはるか彼方のことになった。
それでも、偏差値や大学名で話す人々を見ていると
思い出す詩がある。
江口いと、という女性詩人の詩。

「人の値打ち」

何時(いつ)かもんぺをはいてバスに乗ったら
隣座席の人は私を
おばはんと呼んだ

 

よくはいたこの活動的なものを
どうやらこの人は年寄りの着物と思っているらしい

 

よそ行きの着物に羽織を着て汽車に乗ったら
人は私を奥さんと呼んだ
どうやら人の値うちは
着物で決まるらしい

 

講演がある
何々大学の先生だと言えば内容が悪くても
人々は耳をすませて聴き
良かったと言う
どうやら人の値うちは
肩書きで決まるらしい

 

名も無い人の講演には
人々はそわそわして帰りを急ぐ
どうやら人の値うちは
学歴で決まるらしい

 

立派な家の嫁さんが
被差別部落にお嫁に来る
でも生まれた子どもはやっぱり
被差別部落の子だと言われる
どうやら人の値うちは
生まれた所によって決まるらしい

 

人々はいつの日
このあやまちに気づくであろうか

 

 

部落差別と戦った人の詩だけれど、
偏差値や大学名や肩書や…人の値打ちは何で決まるんだろう、
と思うことがある。
立派な(立派な、の定義は棚上げしておいて)大学を出て、
立派な会社に就職し、肩書がついても
こどもが何か悪いことを起こせば、途端に”失格”の烙印を押され…
なにか一つの失敗で、よく評価は急降下するけれど、
一つの成功で、評価が急上昇することは滅多にない。

少しでも良い大学に!!失敗のない大学選択を!とまじめに
知り合いの受験生たちは頑張っている。

「学部の選択、間違えた…」と大学1年の夏に気づき、
(文学部ではなく、社会学がしたかった学問だった…と)
卒論のときにも「学部の選択、間違えましたね」と改めて教授に言われた私。
(これは卒論の判定にマイナス評価ってことか?!と焦ったら
一番高い評価をした、と言われて安堵したのを覚えている。。)
文学しているんだか社会学しているんだか…の大学時代、
学部選択というミスをしたけれど、意外に楽しんだ。
だから、きっとどの選択をしても、それを楽しむのは本人次第で
成功も失敗もないんだと思うよ、と大学卒業して10年以上過ぎた私は思う。
そして、大学とかそんなことで、人の値打ちも決まらないよ、と。
私の子どもたちが大学受験のときも、そう思いたい。

 

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