ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

各国の先生事情

「先生への尊敬の念が失われている」
「親がしつけのすべてを学校に投げる」
と日本でも現役や元教員の友人、知人から耳にタコで聞いてきた。
でも、この話は日本だけではないようで、
ドイツの現役教師のパルも「こどもたちのマナーがひどい」と
愚痴ることがある。「ランチを座って食べる時間もない」と。
なぜなら、難民や移民のこどもが多く、言葉が通じない、
共通のマナーもないように思える、
親へ言おうにも親にも言葉が通じない…と。

アメリカの現役教師のパルは「私はあと数年で引退だから、
なんとかやっていけるけれど…」とこちらも最近のこどもたちの
不真面目さに呆れている、と手紙に書いていた。
そして、昨日受け取ったフランスのパル、4歳児担当なので
幼稚園の先生。
「最近の親は本当にこどもを叱らないのよ。
褒めて伸ばす教育が流行っているのはわかるけれど、
教えるべきマナーっていうのも、もちろんきちんとあるのに!」
と、かなりお怒りトーンできた。

…実は知人(ということにしておこう)の言動に私は衝撃を受けた。
「言っても言うことを聞かないから幼稚園にお願いしてる!」と。
「先生に言うわよ!」と怒っている、と。
でも、先生もお手上げのときがあるそうで、
「先生、ちゃんとしてくれないの~」と言っていた。

いままでは”最近の若いママさんって…”とジェネレーションギャップだと
思っていたら、その知人が私より2つ下という衝撃!
そして、現役教師のママさんが幼稚園児の息子を叱るときに
「先生に言うわよ!」と言っていて、また衝撃。
そうか、もうそういう世界か。。。
そんな話を家族団らんのときにしたら、こどもたちが
「お父さんたちは言わなかったのか?」と聞いてきた。
言うわけない!しつけは家庭でするのよ!と鼻息荒く私が言う横で
夫が言った。
「お父さんも”先生に怒られるぞ!”なんて言わない。
それよりもっと効果があるのは”お母さんに言うぞ!”だから。」と。
「ダメじゃん!!」
「丸投げ!」
「あかんやつ!」とこどもたちから集中砲火を受けていた…。

そういえば、真ん中の息子が小学校入学の時、小学校の先生は怖い?と
2つ上の姉に聞いていた。
娘が「うちのお母さんより怖い先生なんていない!」と断言。
その2年後、末っ子が小学校に入学するときに息子が言っていた。
「うちのお母さんより怖い先生はいないから大丈夫!」

価値観が多様化しているいま、先生たちも大変だろうなぁと思う。
よくいえば、信念のある保護者が多い気がする。
その一方で信念のある先生が減った気がする。
職業、”教師”で、教育者ではないんだと思うことにしている。
いろいろあって、語りだすと止まらない小学校生活10年間、
ついに3月で卒業!
そんな私に謝辞がまた回ってきた。卒業式1か月前に。
1度、その役を引き受けたことがあるので、別の人に…と断ったけれど
結局、することに。
「学校への感謝を!先生への感謝を!」謝辞に書いてください、と。
学校への愚痴なら筆が止まらないのに、”感謝”を書くとなると
具体的エピソードもなければ、創作の筆も止まる。
学校に批判的な私が2度目の謝辞、面白そうだ!と思うしかない。

『無人島のふたりー120日以上生きなくちゃ日記』

久しぶりの山本文緒
学生時代にはお気に入りの作家だった気がするけれど
新刊がでても読まなくなっていた。
そんな彼女が癌で亡くなったことを知った時、
あの若さで?!と衝撃を受けた一人。
いつでもまた読みたいと思った時には読めると思っていた。

無人島のふたりー120日以上生きなくちゃ日記』は、
彼女がすい臓がんのステージ4と診断され、
予後を4か月(120日)と知ってからの闘病記。
お涙頂戴ものではなく、淡々と彼女の日々が描かれている。

癌の宣告を受けてから、夫と二人でまるで無人島に取り残されたような
気分になるという記述に、末期ガンの彼女でしか書けない空気の
切り取り方を感じた。さすが作家だ!と。


癌の闘病記を読みながら、不思議な気分だった。
闘病記といいながらも、末期で緩和ケアに移行してからの日記で
結末も読者の多くはほぼ知っている。
それでも、読者の一人として、ちょっとでも長く、
あまり苦しむことのない日を多く、
いろいろな人にお別れを…と読みながら考えてしまった。
まだまだ読みたい作家さんだった。

 

高齢化

女子高生の娘に「最近は映画の主人公まで高齢化してない?」と
私が観ていた映画について言われた。
観ている私の年齢が上がってきていて、恋愛だけの映画に
胸がときめかなくなったから、な気もする。
そう思いつつ、いや、やっぱり映画も高齢化しつつある?と思ったり。
そうかと思えば、永井路子が「ネグってる」と著作の中で書いていた。
ネグってる…なにそれ?とググる私。
多分、前後の文章から推察するに、ネグレクト(無視された)から
きているんだろう。
ネグってる…初耳!
昔の人は使ってたのか?ナウいでしょ?みたいに???
「”ネグってる”使ってました?」と
高齢者世代の方々にはつい聞いてしまう今日この頃。
「あら、懐かしい言い方!」なんて人、いまだに会いませんけれど…。

先日、知り合いから共通の知人の近況を聞いた。
私とは違う県にいた彼女が私の生活圏内に引っ越してきている、
という話だった。
あら、全然知らなかったわ。仕事の都合で?と聞くと、
「違うの!」とものすごく真剣な顔で言われた。
えっ、なにか良くないニュースでしょうか…と私も真面目な顔をして
次の言葉を待った。
「彼女、駆け落ちしたのよ!」と。

・・・駆け落ち!?
駆け落ちって、あの若い男女が手に手を取り合って
親の許可を得ずに新天地で結婚するっていうような昔のアレ?
でも・・・いや…えっと…彼女、私より7つほど上ですよ…
自分でも言いたくないですが、”もう若くない”んですけれど。

わかった!相手がとっても年齢が下で、相手のご両親が反対して
手に手を取って駆け落ちかと思いきや、相手は彼女より年上。
えーっと…どちらも良い年齢の大人で、”駆け落ち”っていうのか?
もう親の許可がいる年齢でもないだろうに、と呆然。
ちょっと駆け落ちの定義がわからなくなってきた…。

ロンドンのパルが以前、ドイツ人と日本人の国際カップルの話をしていた。
日本人女性の親が結婚に反対をして、”駆け落ち”状態らしい、と。
ロンドンのパルはドイツ人男性に「日本人の彼女が親の許可を
どうしてもとってから結婚したいらしい。日本人はそういうものなのかな。」と
相談されて、「びっくりしたわ!!」と話していた。
どこにびっくりしたの?
”駆け落ち”がまだ存在するのかってところ?と聞くと、
「結婚に親の許可がほしい」と言う成人女性に、だったらしい。
「だって、あなたから聞いた話を全然違うから。」と。
私の場合は夫が私の親に挨拶にきて、芳しくないことを言われ(婉曲表現で)
私が「これは結婚の許可を得ているんじゃない。挨拶にきただけ。
この人と結婚します!っていう挨拶よ。」と言った。
若かったけれど…。いや、若かったから?
夫や友人たちも、両親も「さすがメイ!」と笑ったり、呆れたり…。
そんなことを知っているロンドンのパルは
「親からの許可がないと結婚できないって…」と呆然としたらしい。
そのときは、まぁ人による?と思ったのは、その女性が私より若かったから。
いま私より年上の女性の”駆け落ち”に衝撃を受けている。
駆け落ち…年齢制限なしか。すべてが高齢化しつつある社会かも。
成人年齢は18歳になったのに。

もう新刊は出ない

永井路子逝去”のニュースに衝撃を受けた。
そうか、もう新作はでないのか…と思いつつ、
最後に読んだ新作が何だったかは覚えていない。
祖母と母が永井路子が好きだったようで、
本棚には永井路子が並んでいて、読む本がなくなると読んでいた。

一豊の妻』や『茜さす』

 

 

本を通して歴史の流れを知り、いろいろな人物を知った。

そういえば、華岡青洲を知ったのも永井路子の本だった…と
調べて知る。
有吉佐和子だった!
あれ?じゃあ、あの和宮は?…それも有吉佐和子

永井路子有吉佐和子の本が私の中でごちゃ混ぜになっていた。
氷室冴子がいなくなったとき、「そうか、もう新刊はでないのか…」と
淋しさを感じた。
気づけば、お気に入りの作家たちがどんどんいなくなり、
新刊を心待ちにする作家が減ってきていることがとても淋しい。
いまなら図書館で予約して新刊を待つことなく、
新刊を買えるというのに。

Amazon永井路子の本を数冊買った。彼女を偲びながら読むことにする。

 

 

ボディブロー

地味にショックを受けていたらしい。
ボディブローのようにじわじわと効いてきていた。
スイスのパルに「あなたって、日本社会では規格外だから」という言葉。
いやいや、あなた日本人を知らないじゃん!と言いたいところですが、
彼女の成人したこどもたちは日本在住で、
日本人の配偶者で…年に数回、彼女自身も来日していて
しかも、「メイって、日本人じゃないわよね」と言われたのが
初めてじゃないので、じわじわと…くる。

生まれてこの方、日本在住の私が日本人じゃないって、
じゃあ、日本人は一体、誰よ!?って、なるじゃん!と
久しぶりにメッセージが来たコスタリカのパルに話すと「ハハハ!」と
爆笑だった。
違う、そこは笑うところじゃない。
コスタリカのパルは日本人の友人は私だけらしい。
「でも、あなたは日本人のイメージを変えたのは確か。」と。
良いほうにでしょ?すごくよくなったんやろ?としつこく聞いたのに
「ハハハ」って…良くなった、ということで。

相変わらず、迷える子羊がいるわけですよ。
本人は「日本人しているつもり」だというのに、そう思われていない。
日本人の友人にもその話をした。
謙虚に、物静かに、大勢の話に耳を傾け、礼儀正しく、
義理篤く、こどものしつけにも厳しい…これぞ日本人じゃん!!と
つい自分で言ったら、
(謙虚な日本人はもはやどこにもいない…)
「メイが思っている以上に、日本人はおとなしいのかもよ」と言われる。
・・・マジで?とつい素が出るわ。
かなり頑張って羊の仮面被っているつもりだったのに、
実際は被れてなかったってこと?
私が羊だと思っていたのは、もしかして狼だったのか?

コロラド州のパルに「典型的な日本人ではないって言われて
ショックを受けているところなのよ。」と話した。
いや、そもそも何が典型的な日本人、と海外の人々が思っているのかも
私にはよくわからないのだけれどね、と話した。

"Japanese people are known to be very conservative , quiet and 
only mingle with their own culture, 
That could be why."
(日本人はとても保守的で、物静かで、彼らの文化の中で
楽しんでいる。そういう感じよね。)

"You are more liberal in thinking , 
you have strong viewpoints and speak out your minds.
Good traits."
(あなたの考え方はもっとリベラルだし、
確固たる価値観があって、思っていることをはっきり言う。
良い特性よ。)
*liveralはリベラルとそのまま訳したけれど、
これは進歩的と訳すべきなのか、最早、日本語でもリベラルは
伝わるような…。

コロラドのパルは続けて、彼女たち(私に”日本人っぽくない”と
話した海外のパルたち)が本当に言いたかったことは、
「あなたは無理に狭い日本社会という枠の中に自分を抑える必要はない」と
言いたかったんだと思うわよ。そのままでいいのよ、と。
さすが”元”学校の先生だな~という染み入るアドバイスだった。

そう言われれば、ロンドンのパルは言っていた。
”I think you should be yourself,
you are a wonderful person as you are.”
(あなたはあなたのままで素晴らしいのよ)
そういうことか、と腑に落ちた。

 

『ボトルネック』

ボトルネック

久しぶりに日本の小説を読もうと思った。
なにかで読んだあらすじにとても興味を持った。
そこで紹介されたあらすじはこんな感じだった。

友人の弔いに東尋坊を訪れ、そこでタイムリープする。
異動した世界では、僕の両親はとても仲が良い。
僕にはいなかったはずの姉がいる。
元の世界に戻りたいと思えない良い世界がそこにはあって…。

似たような世界で少しだけ違う”間違い探し”の世界は、
僕の世界では潰れた古着屋があったり、
地主が切らさなかった大きな銀杏の木があったり、
事故で死んだはずの親しかった友人が生きていたりする。
それらの世界がただ漠然と存在しているのではなく、
僕がいない世界で、僕ではない誰かが作り出していることに
気づく。

これ、青春小説なのかしら?と読んでいて、
推理小説”だと知った時、タイムリープを私もしたのかと
思うほどの衝撃だった。
こういう推理小説もあるのか~と。

イムループもタイムリープもタイムトラベルも、
どれも既視感いっぱい、既読感いっぱいの
どこかで観た、読んだことがあるストーリーになりがちだけれど
こういう話もあったのか…と最後まで面白く読めた。

私自身はタイムトラベルしたことはないけれど、
認知症になった祖母や父によくパラレルワールドに連れて行かれた。
私は小学生になったり、女子大生に戻ったり。
それなのに私には子どもがいて…
「いまはなにをしているの?」といつも祖母の作り出す
私の設定に興味津々だった。
読書をしながら、なぜだか認知症だった祖母を思い出した。

 

 

『老後とピアノ』


大人になってからピアノに手を出す人の本に惹かれる。
『やくざときどきピアノ』はピアノを弾いたこともない
やくざ専門ルポライターの手に汗握るピアノ練習日記だった。

ヤクザときどきピアノ

ヤクザときどきピアノ

Amazon

『老後とピアノ』

こちらはピアノを小学生時代に習い事としてしていたものの
遠ざかり40年越しに始めた練習日記。

大人になってからピアノを弾く人たちの練習日記は
肩の力が抜けていて、とてもいい。
いや、本人たちはとてもまじめで、発表会に怯え、
ままならない指に苛立ち、ということはあるものの、
子どもたちが背負っているプレッシャーはない。
小学生なら楽譜はどのへんまでいってる?とか
このくらいの難易度の曲は弾けるの?なんていうことを
聞かれる。大人には「練習しなさい!」と言う親もいない。
プロにしようと思っていなくても、つい「練習しなさい」と
こどもに言ってしまう親の一人としては、
こどものピアノとは立っているステージが全然違うなぁと
若干、羨ましくなる。

『老後とピアノ』の作者は元新聞記者。
競争に負けないためにエネルギーと時間を仕事に捧げ続け、
生産性と効率性を求めて生きてきた中で、ピアノを習い始める。
生産性も効率性も感じられない50過ぎの手習い。
それを書いて仕事にして、飯のタネにしようじゃないか!というところに
さすが大人のガッツだわ、と思ったりもしたけれど。

友人や知人にもこどものときに習った楽器を聞くと
ピアノ、バイオリン、フルート、お琴、と各種、でてくる。
「あの練習時間が好きだったの~」という人は一人もいない。
でも、数人は大人になってから練習を再開し、習い始めている。
こどものときは好きではなかったのに、いまは楽しめる、と。
大人になって再開するときこそ、音楽を楽しむ余裕もあるのかもしれない。
生産性や効率性や才能などを考えずに。