ショコラ日和

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『旅人』

 『旅人』

旅人 ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)

旅人 ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:湯川 秀樹
  • 発売日: 2011/01/25
  • メディア: 文庫
 

 この本を手に取ったのはちょっとした認識不足からだった。
そういえば、以前ノーベル賞を受賞した日本人の誰かの
文章を新聞で読んだとき、
理系の人なのに、こんなにすっきりした文章を書くのか!と
衝撃を受けた。

こねくりまわした難解な文章や知識階級だけ読めればいいと
いうような他者を遠ざける文章を書く学者たちに
正直、辟易したこともある。
ぞんざいな日本語や主語の発掘に悩まされるような文章にも
頭が痛い思いをすることが多々ある。

そんなときに、読んだすっきりとした文体は幸田文を彷彿とさせ、
筋が一本通った文章に清々しくさえ思った。
なんだか疲れたいま、あの文章を読みたい!
えーっと…日本人で…ノーベル賞を受賞した…
あぁ!湯川秀樹博士!間違いない!と間違えた。
(私が新聞で読んだのは白川英樹博士、ノーベル化学賞受賞)

読んでいて、物理学の話が幾度となくでてきて、
あれ?物理学?化学ではなかったかしら?と気づいたとき、
間違えていたことに気づく。
それにしても、ノーベル賞受賞者がどちらも”ひでき”博士とは、
私も息子には”ひでき”と命名すればよかった…。
末は博士でノーベル賞か、と。

『旅人』は湯川秀樹博士が自身の幼少期から
阪大で教えるまでを自伝的に書いている。
”物理学”の言葉がでてこなければ理系の大学の先生だとは
気づかないほどに博識。
幼少期から漢籍を祖父に学び、英語、ドイツ語、フランス語も
学んでいる。
フランス語は夜間学校に通ったから、授業中の睡魔に負けて、
という親近感が沸くことも書かれているけれど、
専門書を読む程度にしか身につかなかった、と…。
「十分じゃん!」とツッコミをつい入れてしまう。

数学で才能を発揮していたのに、物理学へと進んだ理由が
書かれていた。

先生に教えられた通りに答えなければならない学問、
そんなものに一生を託すのはいやだ。 p189

授業で先生が教えた証明とは違うやり方で証明を解き、
減点されて、数学への情熱がなくなる。
なんて先生という職業は罪深いんだ。
知的欲求もあり、才能もある青年の情熱を失せさせるとは。 
しかも、三高(京都大学の前身)の数学教師。
そうか三高ですらそういう先生はいたのか、
いわんや片田舎の公立学校に…(以下略)と思いを馳せ、
一人納得。

本書は順風満帆な学者生活とその後のノーベル物理学賞受賞、
というようなあらすじを想像して読んだ。
全く違った。
自分が進む道が見いだせず、興味のある方向を探し出せない
青年時代、
あれもできない、これは苦手だ…物理理論しか残ってない、
とその時代には新しかった学問に決める。
これは!と道が開けそうになったときに、海外の若手天才学者に
颯爽と新しい発見をされる。
大学を卒業して、くすぶっていた期間も書かれている。
朝は颯爽と歩いて大学へ行き、夕方気落ちして歩いて帰る、
そんな日常が博士にもあったとは。

文章が穏やかで、清々しく、理路整然としていて
とても読みやすい。説教臭いところもなく、
静かに共感してしまう、そんな文章があちこちにあった。

一度開拓された土地が、しばらくは豊かな収穫をもたらすにしても
やがてまた見棄てられてしまうこともないではない。
今日の真理が、明日否定されるかもしれない。
それだからこそ、私どもは、明日進むべき道をさがし出すために
時々、昨日まで歩いてきたあとを、ふり返って見ることも
必要なのである。 p6

日露戦争第二次世界大戦、そして原子力爆弾…
そういう時代を考えると、この言葉の意味は深く、重い。