ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

原稿作成


謝辞をずっと考えている。
いろんな人がとても有意義なアドバイスをいろいろとくれる。
「思ったことを素直な気持ちで書けばいいのよ。一番に思いつくのは?」
「せいせいします!」と最初に思いついた正直な気持ちを言うと、
「・・・それは、謝辞に使えないわね」と。
でしょうね。

いや、そもそもコロナ以降はイベントも減り、保護者が学校へ行く機会は
ほぼなく、家庭訪問もなく、
去年の担任の先生に至っては顔すらわからないまま。
謝辞も漠然とした抽象的なことばかり書いてしまう。
そうすると、「もっと具体的なエピソードはないの?」と言われる。
「ないよ!学校行事に行ってないでしょ!」と言うと、
「それでは、それもエピソードとして入れられるね」と。
学校行事がコロナ禍でことごとくなくなり、担任の顔すらわからないままですが
家庭訪問がなくなったのはラッキーだったと具体的に書いたところで、
”謝辞”にならない。
4年前の花子の卒業式の謝辞がすんばらしかったといまでも言ってくれる
来賓の方々は「今度の卒業式、楽しみです!」とハードルを上げてくる。
「前回は中学校の校長先生も泣いてましたよ。」と。

最初の子である花子のときは、私もピカピカの新一年生のように
すべての学校行事が目新しかった。
っが、末っ子に至っては下校トラブルさえも既視感いっぱいだった…。
私の観察力も多分、花子のときの3割以下だったため、
本当にない、エピソードが!!とのたうち回っていたら
見かねた夫が歴代の先生を思い出そう!エピソードも見つかるさ!と
いうことで、振り返ってみた。
でるわ、でるわ、思い出す先生への愚痴エピソード。
「あれはひどかった!」「あれはないと思った!」「考えられない!」
という具体的エピソードに夫も
「思い出すべきやなかった…」と言うほど。
私の血圧が上がっただけだった。
夫も前の謝辞に比べて、今回の完成度は低いというけれど、
前回の謝辞はほぼ半年かけた。エピソードを血眼になって探し、
「それだけ三振すれば、そろそろホームラン級の何かあるよね?!」と
先生に期待し、年末を過ぎるころには
「ホームランはもう期待していない。ゴロでいい。
バットに当ててくれればいい!なにか心が動くネタをください!」と
先生の言動を祈るように見つめていた。結局、ゴロすらなし。
3か月は推敲に推敲を重ねていた前回…
今回は一か月!完成度、6割で十分でしょ!と思いつつ、
寝ても覚めても謝辞の原稿とにらめっこ。

私の中では8割完成かな?というものをママ友二人を前に読んでみた。
「こんな謝辞はどうかしら?」と。
カフェで読み、ママ友二人を泣かせた!
「いろいろと謝辞を聞きながら思い出して、泣ける!!」とか
「十分にエピソード入ってる!」とほめられた反面、
「学校への感謝エピソード弱めね」とも。
…それ以上を望めば脚色や誇張を通り越してもう創作の世界です。

そして、なんとか自分の中で満足できる、
前回と同レベルのものができたと思う。
後はジョークを考えるだけ…。