この頃、「文通を趣味にしている」ことがあちこちでバレてきた。
子どもに毎日のように頼んでいた手紙だったり、
イギリスのパルが来日するので、おすすめレストランを聞いていて
どういうお知り合い?彼女は日本語できるの?と聞かれ、
「手紙やチャット…日本語はあまり聞いたことない…」と話すと、
「英語ってこと?!国際的なのね!」と。
国際的…これを聞くたびに、う~ん…と悩む。
私の高校には”国際”と名がつくコースがあり、
英語大好きだった私はそのコースを選んだ。
そして、一番に先生に言われたことが
「国際的な人って、どんな人かを考えましょう」だった。
英語ができれば国際的なのか?
英語ができない人は国際的ではないのか?
一体、どんな人が国際的なのかを考えながら高校生活を送りましょう、と。
その大きすぎるテーマはずっと重くのしかかり、
大学進学のときには、”国際”と名がつく学部や学科を
「この大学の”国際”って、何?まさか英語が多いだけじゃないよね?」と
変に疑り深くなってしまったほど。
そして、卒業して何年も経つけれど、いまだに”国際的な人”がわからない。
英語ができるだけでは国際的だとは言えないと思う。
英語ができなくても、国際的な人にはなれると思う。
他者の文化を尊重し、自分の文化を主張することもできる、
ひとりひとりを偏見の目で見ることなく接することができる人が国際的な人で
英語はその道具に過ぎないと思う。
「○○という国からは求婚メールが大量にくる」と知り合いのパルたちが
口ぐちに言い、その国の人を多くの人がブロックしている、
そんな国がある。
へぇ~、私には求婚メールこないわ~と残念がっていた国から
「Can we be friends?」(友達になれる?)とメールが来た。
一瞬、警戒してしまった私はただいまちょっと自分で落ち込み中。
国際的云々は放り捨てて、希望は「ドアはいつも開いてます!」という
フレンドリーな人。
但し、そのドア、意外にきっちり締めたり、鍵をかけることもできるんです。
そういう人に私はなりたい。