ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

『高学歴親という病』

高学歴親、に多分、私もなる。
きっとぎりぎりの末席くらいには入れてもらえるはず。
そういう高学歴親の教育あるあるが書かれている本を読んだ。
『高学歴親という病』

この本を手に取ろうとする人は、きっと教育に行き詰った
私のような人なのだろうと思う。
同じ環境、あるいは、それよりも良い環境を与えているのに
なぜか伸びないこどもの成績。
不安に駆られて口走るネガティブな言葉。
それによる自己嫌悪、上がらないこどもの成績。
負のループに入っている、と私自身は思う。

高学歴親でこどもの成績も順風満帆だったり、過去にそうだった人とは
もう話が全くかみ合う気すらしなくなる。
頑張ったのに…私が、と主語を「私」で語っていて気づいた。
いや、こどもの教育とこどもの人生で、主語は「私」じゃないじゃん!
そう気づくと、今度はこどもの成績を主語「私」で語るママさんたちに
「それ、他人のふんどしね。」と思ったりもする。
それでも、体に染みついている偏差値重視の価値観が消えないのも
高学歴親あるあるな気もする。

本書のいくつかは、ハイライトをつけたほど(kindleで読了)
「わかるわ…」と思う箇所もあれば、そうではないところもあった。
筆者の自分の受けた教育が自分に良かったからと言って
こどもにも最良だとは限らない、という言葉には私も気づきつつある。
同じことをすれば同じ結果が得られる、
対照実験が不可能なのに、そう考えてしまうんだよなぁ。

この本を読んで、何か得るものがあったか、と聞かれると、
薄々気づいていたことを言語化されただけ。
こどもの成績不振に気づいたとき、私が求める子育てのゴールは
なんなのだろうかと考えた。
学年1位を取り続けることか?なにかでグランプリをこどもが獲ることか?
こどもたちにどんな大人になってほしいのか?と。

実は、最近、夫と「あの人は素敵だね」と話した人が同じだった。
彼は某有名大学を優秀な成績で卒業し、地域では有名な企業の研究職で
将来はきっと…というわけではない。
中学時代の成績がひどすぎて高校受験が大変で(本人談)
その後の資格試験もギリギリセーフどころか落ち続け
それでも人柄を買われて転職し、そこでもまた人柄を買われて
ヘッドハンティングされ、まもなく、なかなかな地位まで…
そんな彼はスポーツ選手としても子ども時代には活躍していて…
なんて聞くと、つい「こどもにさせようとしなかったの?」と聞きたくなる。
「こどもがやりたいことをさせてきたら、こどもが選ばなかった」らしい。
こんな人を”人たらし”(”女”たらしじゃない、”人”たらし)って
言うのか!!と初めて分かった。

その一方で、息子の学年で学年上位を取り続ける生徒がいる。
教科書丸暗記完璧なのでは?と思うほどの記憶力で。
その子と話すと私はいつも思う、「浅い」と。
知識の全てが教科書の枠を超えない。
興味のあることは教科書の外にはないのか?と不思議になるほど。
満点をいかにとるかが最大の勉強目的なのかもしれないとすら思う。

それに比べて我が家の息子は点数の取り方を知らないのか?と
言いたくなるレベルの点数を取ってくる。
それでも、「その情報源は何?」と私も知らないことを知っていたり
知識の奥行きを感じる。京の町屋のように。
でも、楽しそうに学校に行き、友達と笑い合い、
「あんたが人生の勝ち組だよ」と、つい言ってしまうことがある。

高学歴親で、佐藤ママになりきれなかった、なりそこなったママが
読んでほっとする本かもしれない。
こどもの人生の主語をこどもにして、
自分とは違う人生を歩んでいる人をいかにサポートするかを考え、
ついつい先回りして失敗しないようにすることをやめ、
本を読んで急にできるなら誰も苦労しないけれど。
「私が」と主語を「私」で語る人生を私も取り戻す頃だと思う今日このごろ。