ショコラ日和

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『シー・セッド その名を暴け』

『シー・セッド その名を暴け』

 

シー・セッド その名を暴け

シー・セッド その名を暴け

  • キャリー・マリガン
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MeToo運動の火付け役になったニューヨークタイムズ
女性記者二人が記事を発表するまでの映画。

これが実話で、女優たちがそのままの名前で出ていて、
音声もあれば、本人役で出ている女優さんもいる。
勇敢な人って、彼女のことを言うんだなと思った。

「本人役で出ている人がいる」ということを前情報で知っていたけれど
正直、どの人が本人役かわからなかった。
他の多くの演じている人たちの中で、とても素だった。
実際は、こんな感じなのかもしれない。
発狂したり、絶叫したり、泣き叫びたくても
感情を出しすぎると信用してもらえず、過剰反応と受け取られる。
論理的に順序だてて…
恐ろしい目に遭ったのに、きっとこの人は論理的に
自分の発言の信用度を高めるためにするべきことをいつものように
しているんだろうなと思うと、鼻の奥が痛くなる。

秘密保持契約や示談で語ることを奪われた女性たちが
権力や契約で奪われた声を必死に出そうとした、
淡々と進むけれど、考えさせられる映画。

観る人によって映画の解釈はすごく変わると思う。
男性視点と女性視点でも、そのほかの人生経験でも。

数か月前、私も新聞社に情報提供をした。
複数社したけれど、興味を持ったのは1社だった。
その1社の取材で、記者クラブでの発表が行われ、
結果的に複数社が地域版で記事にした。
それでも、その記事はただの事実の羅列で、
そこには社会的正義も法律の抜け穴も救済措置がないことも
何も書かれなかったし、どこの新聞社も指摘しなかった。
同じ被害者がこれから出たら?これで終わり?とつい聞くと
記者は「訴えたら?」と。
たくさんのメモも音声データもあったけれど、
提供を促されることも確認されることも一度もなかった。
(全国紙だけれど)
新聞記者はジャーナリストかと思っていたけれど、
日本の新聞記者は組織人に過ぎず、求められる空き分量を書き
それで終わりなのだな、と思った。

映画の中の二人の女性記者たちを動かすものは何なのだろうかと
思いながら映画を観た。
同じ女性として戦う、という義憤に駆られているようにも見えず
ジャーナリストとして、というようにも見えなかった。
声をあげることを決めた女性たちが
「私がしなければならないこと」
「娘たちに同じ思いをさせたくない」と口々に語ることと
対照的だった。
私を動かすものは何なのだろう?と映画を観ながら考えた。