ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

議論の形

"Think Again"を英語で読んでいる。(現在進行形)

恋愛小説と違い、考え込むことや夫と議論したくなることがあり、
いろんな意味で進まない。
この本は「考え直すことで、新しい世界が開ける」っていう話…
だとレビューで読んだのだけれど、
結構、考え込むことが盛りだくさんになっている。

例えば、ディズニーの方針に異なる意見を言ってクビにされ、
ピクサーに入り、大成功を収めた男性の話。
コストや技術の面で無理だろうと言われていたけれど、
コストを大幅カットしつつ、大成功させた。
”The Incredibles”を。邦題は『Mr.インクレディブル

彼はどうやったか、彼にdisagreebleな人をチームに入れた。
disagreeble、反対な人と訳すか、批判的な人と訳すべきか…。
賛成してくれている人は勇気づけてくれたり、背中を押したりするけれど
よりよい提案をするのは反対の人たちで彼らの批判こそが有益だ、
という話が展開されていた(ハズ)。

わかる、言いたいことはわかる。
ただし、その反対意見の人も”目標は同じだった”ということが大きい。
反対意見の人たちは「そんなアニメを作らせない」という立場ではなく
「より良いアニメを作りたい」という人たちだったのだろう。
だから、活発な意見交換にもなるし、議論も白熱する。

しかし、私の知っているよく見かける”反対”の人たちは、
「なにがなんでも反対する」
「なんだか気に入らないから反対する」
「性別が気に入らない」
「年齢が気に入らない」
「いままでと違うことは受け付けない」
という人々で…彼らとチームを組めば、よりよい方向へ!って
ならなかったなぁ…。

”反対意見の人をチームに加えたこと”が成果ではなく、
”多くの人が気づきにくかった問題点を忖度なく指摘できる能力のある人”を
チームに加えたことが成果だったのでは?と読みながら思った。
そして、大前提に”同じゴールを目指している人”。

自分の考えや意見を変えることが”できる”人、というのは
新しいことを学べる人だ、という意見には賛同できる。
ノーベル賞受賞者で80代の男性の「僕が間違っていたかもしれないってことか。
それは新しい学びだね!」という言葉なんて
胸に刻みたいとすら思う。
80過ぎて自分が間違えていたかもしれない、と認識できて
かつ、新しい考えを学ぼうとするその姿勢は尊敬に値する。
どんなデータや数値をもってしても考えの変わらない人たちを見ていると、
「この人は何を根拠にその考えを強固に維持できているのだろうか。」と
不思議に思う。
著者もしばしば、膨大な調査をさせてレポートを書かせながら
一顧だに値しないという経営者に「あなたの考えを変えるものはなんだ?
そもそも、なぜ私を雇った?」と憤慨したりする。

この本を読んでいて、日本の…というよりも私の周囲の環境なのか?の
議論レベルの低さというか議論の体をなしていないのでは?と
思ったことが幾度となくあった。
議論をすることは、問題点を洗い出し、妥協点を見つける、
という同じゴールを目指すものだと私は思っている。
以前はどっちが勝つかの綱引きかシーソーゲームだと思っていたけれど。
しかし、私が目にする会議での議論?は
会長の鶴の一声で根拠なく決定したり、
今まで通りが最善のように通されたり、
長老に従え!方式だったり、
それぞれが自分の意見を言い、最後は多数決だったり…
果たして、これは議論なのか?集まる必要あるのか?
中学生ならともかく、大人でこれ?これが日本の議論?
と複雑な気持ちになっていた。
なんてことを語ったら、我が家のこどもに「議論の最高峰は
やっぱり国会じゃない?あれを見たら、日本の現実がわかるよ」と
言われ、暗澹たる気持ちになったり。
こどもに馬鹿にされているレベルでいいのか…。

「正しい人はよく聞き、意見をよく変える。
意見をしばしば変えないということは、よく間違えているということだ」
という文章も胸に刻もう。
私が興味を抱くのは「どうすれば人の意見を変えることができるのか」。
立場の違う人の話を聞いても意見を変えず、
データにも感情にも揺り動かされず…な人はいる。
一体、彼らを変えるものはなんだ?と思っていたけれど、
本書に出てきた。
「彼らの意見を変えることができるのは彼らです」と。

禅問答がしたいんじゃないんだー!と
叫びそうになった。
っで、その彼らをどうやって変えるの?というところまでは
まだたどり着けていない。本書にこれからあるのか、
もしくは、書かれていたのに私が読み間違えているのか、
それとも禅問答なのか…。