ショコラ日和

海外文通を通して、世界の友達と井戸端会議しています。

日本語を話したくない

家族に「今日はどうだった?」と聞かれると
評議内容を何も言えないので、
「もう日本人と話したくない!」とひたすら言っていた気がする。
(公開されている裁判でのことは話せる。傍聴人も見聞きしているので)
裁判員裁判に参加するため、学校行事等で出席できないときがあり
ママ友数人に裁判員のことも話した。
(”特定少数”に裁判員になったと告げるのはOKだと裁判官に言われた。
会社や家族、親しい友人など、)
彼女たちにも感想を聞かれるたびに
「日本人はいやだ。」とひたすら言っていた気がする。
「日本人が理解できない。日本語が理解できない」と愚痴っていた。

私だけに限らないことであろうけれど、
友人とは価値観を共有していることが多い。
全く価値観の合わない人とは疎遠になるので
結局は似た者同士で仲良くしていることになる。
日本人とは話が合わないことも多い、と海外の友人が多い私が
久しぶりに見知らぬ日本人たち、しかも全く価値観を共有できない人たちと
天気の話ではなく、誰かの罪について議論した。
話が合うわけない!

アメリカ人やイギリス人の友人たちと話していて、
たまに価値観の違いに衝撃を受けることがある。
最近では”中絶の権利”とか…。
議論をする意味がないほど、お互いに譲れないことがあるときもある。
そういうとき、国の歴史?宗教?教育?文化?
もしくは、私の語学力による誤解もあるだろうし…と思う。
そういうときの私はとてもわからないことや理解できないことに
”寛容”だと思う。
わからないこと、理解できないことを見つけたとき、
面白いとすら思う。(←多文化の理解できないことを面白いと思える人だと
占い師に言われたときは、つい、正解!!と言ってしまったけれど
”多文化の”というところが言い得てた…)

それが日本人になると、価値観の違いに呆然とする。
えっ?いまあなた、日本語を話しています?
同じ文化圏で同じ国で世代や地域の差はあれど同じような教育受けたよね?
私の日本語、理解できてる?
なにがどうなって、その理論?
どうやって、その理屈になったの?
日本語話しているのに意味わからんって、どういうこと?!と
そこに”寛容”なんてかけらもない。
朝から夕方まで、「あの人たちの日本語の意味がわからん。どういう理屈?」と
脳内でぐるぐる回っているので
帰り道は「もう日本語話したくない。日本語聞きたくない。
日本人と話したくない。」となっている。
そのうち、行きも「日本語いやだ…」病を発症するようになり、
行き帰りの電車ではkindleで洋書を読んでいた。
日本語なんて見たくも聞きたくもない!と。

日本語、理解できない、
日本人、理解できない、
おかしいのは彼らか?私か?と鬱屈した気分になって
毎日のように「日本人ともう会話したくない!」と夫に言っていた。
裁判員生活の往復の電車内と昼休憩で洋書を2冊読めた。
日本語の本なんて読もうとも思わず、
日本語、おなか一杯です…状態になっていた。